黒幕へと続く2

黒幕へと続く2

 

明治政府は、僧籍に入っていた男子を次々と還俗(げんぞく)させ、新しい宮家を興した。明治時代以降に天皇家から分家したものもあり、戦前には20家近い宮家が。「宮家の2男以下を分家させて新しい宮家をつくる」のが通例に。戦前、12家が新しい名字を与えられて皇族を離れた。戦後、後を継がないなどの理由で14家に減っていた宮家の内、昭和天皇の弟にあたる秩父宮ちちぶのみや)、高松宮(たかまつのみや)、三笠宮(みかさのみや)を除いた11家が、後続の身分を離れて一般国民となった。伏見宮20邦家親王小松宮・彰仁親王、第40代天武天皇の皇子舎人・とねり親王の子孫は清原氏平安時代には中流貴族に。古代、大王や天皇血族の長が死ぬと、あの世で身の回りの世話をする為に、使えていた奴婢(ぬひ)等が生きたまま埋められた。やがて奴婢の代わりに、素焼きの人形や馬・家等を副葬品として埋める様になる。これが埴輪で、是等を作って居た人達を「はにし」と呼び、「土師」と漢字に充てた。やがて、「はにし」は「はじ」となり、是等を製作する「土師氏」が生まれた。奈良時代、土師氏は「大江」と「菅原」に。源氏は、平安時代初めに第52代嵯峨天皇が、皇子・皇女合わせて32人を順次皇族から外して臣下にし、「源(みなもと)」という姓を与えた。以後、何人かの天皇が、子供や孫を皇族から切り離して「源」の姓を与えた。源氏には20系統もの流れが在り、夫々先祖にあたる天皇から、嵯峨源氏清和源氏宇多源氏村上源氏等。後続の分女の姓には「?忘れた」と「平・たいら」。天皇の子供を「親王」、親王の子供は「王」、天皇の子供が姓を賜るときは必ず「源」、王の子供が姓を賜る時は「平」である時が多かった。
源氏は天皇の子供や孫であったことから、当初は公家として活躍。だが代を経るにしたがって天皇家との関係は薄くなり、武家として活躍する人が増えてきた。特に清和源氏の末裔は武家の棟梁として活躍し、その子孫は全国に。52嵯峨の氏の
子孫は、公家から武家へ。村上源氏の子孫は公家が多く、宇多源氏の子孫は公家と武家の系統に。清和源氏は、平安時代中期に清和天皇の孫の経基(つねもと)が「源」姓を賜って臣下に下ったのが祖。経基は藤原純友(すみとも)は武家として繁栄。嵯峨源氏は海にかかわる氏族となる。平安時代末期に、久(ひさし)が肥前国松浦郡佐賀県北部から長崎県北部)に移り住んだのが祖。子孫はこの地に土着して松浦氏となり、周辺の諸豪族を吸収、玄界灘五島列島迄広がる大水軍、松浦党を形成。

 

 福岡藩47万3000石の黒田藩は、江戸時代に博多に来た。侯爵・黒田&鍋島。
浄土真宗では妻帯オーケイ。開祖親鸞の子孫が代々世襲親鸞は日野の出身。公家日野家一族?藤原北家の分家、公家・日野家親鸞の没後、日野家に嫁いでいた末娘の覚信尼(かくしんに)が、大谷に親鸞の廟堂をつくり、孫の覚如(かくにょ)が之を寺にして本願寺を建立。「大谷」は「豅(ながたに) 」共書かれ、現在の龍谷大学は、この漢字を分解したものが由来。其の後、室町時代初めに8代蓮如(れんにょ)が本願寺を一変させる。蓮如は京都を出て各地に布教、浄土真宗を一気に大教団に発展させ、其の根拠地として大阪に石山本願寺を連立。戦国時代には、本願寺は全国屈指の権威と財力を持った大教団に発展し、石山本願寺は並み居る戦国大名と互角に戦える存在に。武士以外が政治に関わる事を嫌い、本願寺の僧侶共が女子供を食い物にしてる事にキレた信長は、石山本願寺と戦う。信長死後、秀吉は12代目教如(きょうにょ)を退け、准如(じゅんにょ)を13代目に。教如は、秀吉の死後に家康に援助を受けて東本願寺を設立。此の頃から浄土真宗は、東西2派に分裂。明治時代に成って、僧侶も名字を名乗る事が義務付けられた際、本願寺は、親鸞の廟堂の在った大谷の地名を取って、東西共に「大谷」と名乗る様に。両大谷家共、宗教関係としては異例の伯爵を授けられて居る。
黒田家も伯爵。「国家に勲功在る者」